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卒業、の、意味。 [卒業]


女将の卒業から、2週間が経った。


最初の一週間はあっという間だったけど、


ここへきて、時間の流れが少しゆっくりになってきた。



ゆっくりになると、考える時間ができる。


てゆーことは、女将との時間を思い出しちゃったりする。


思い出しちゃうと、つい、


眼からの漏水が始まることだって、ある。


そーゆーときは、放出しちゃってる。




ところで、

ぼくがいわゆる葬式をやらなかったことについて、

不思議に思ったり、奇異に感じられた方々がいらっしゃったかもしれない。




きっと、このことはいつか話さなければならないと思っていたので、

この場で、つらつらと書いてみようと思う。



女将とぼくは、彼女の生前、


ときどき、


お互いどちらかが死んだ時のことを話し合った。



彼女がこの病気にかかるより、ずっと前のことだ。



それは、きっと、


ぼくのほうが先に「卒業する」と思っていたからだった。



残された家族がいろいろと心配するのはよくない、

少なくとも、

「ぼくはこう考えている」

ということを、まず妻に、

そして理解し合えた時点で、子どもたちに、

と思っていた。



女将は(妻は)、


「私もそう思う」


と言ってくれた。


ありがたい、と思った。



そうしたら、女将のほうが先に卒業しちゃったんだよぅ。




ま、それは、それ。



ぼくは今、こう思って生きている。



その1)「死」は悲しむべき永遠の別離ではなく、この世の「卒業」だ。


その2)ゆえに、悲しみあふれる葬式はありえない。


その3)ぼくは「式」「形」という、それそのものがきらいだから、

    お願いだからやめてね。

    悲しかったら泣いてもいいけど、

    その、めったにない大事な「悲しい」感覚を妨げるような

    「式」も「形」も、ぼくはいらない。


その4)一生がんばって「卒業」だから、お祝いなのだ。


その5)喜ぼう、祝おう。


その6)「神」というか、「大元」というか、そういう「なにか」がないと、

    ぼくの生きるコンセプトの整理がつかないからあえてそういう言葉を使うけど、

    「神」とは、ぼくの頭で整理がつくような、そんなちっぽけな存在じゃない。


その7)同時に「神」は、一つの宗教の中に納まるような、ちっぽけな存在じゃない。


その8)しいていえば、神は、八百万というのが、ぼくの感覚に一番近い。

    ぼくのまわりすべて、この地球上のすべて、宇宙すべて。
   
   (それ以上は考えつかん)


その9)ぼくは大学生のときに、カソリックの勉強をして洗礼を受けた。


その10)でも、離婚をした。


その11)その時点でカソリックを破門なのかもしれないけど、

     ぼくはキリストは今でも大好きで、

     なにか大事なことがあると胸の前で十字を切ることがある(勝手ですが)。


その12)本当の愛とは、めちゃくちゃに許す心が大きい。


その13)ゆえに、キリストはきっと、ぼくをゆるしてくれる・・・(勝手です)。


その14)あ、ちょっと横道に逸れた。


その15)この世を、愛に生き、真剣に生きた人は、卒業後、必ず祝福がある。


その16)「卒業式」の方法は、決まりが、ない。どんなかたちでも、OK。


その17)墓もいらない。鳥葬でも、土葬でも、散骨でも。


その18)墓がなければ、地球そのものが墓になり、

     どこにいてもその人の命日を祝うことができる。なんて便利なんだ。

     (考えてみれば、人間以外の生きとし生けるものは、そうしている)


その19)そうでなかったら、今回の震災で行方不明のままだったり、

     葬儀もあげられず、発見されたとしても、お棺もなく、

     土葬され、戒名もなく、喪服もなく、墓も津波で破壊された人々は、

     祝福されないのか。


さいご)そういうへりくつは置いといて、ぼくはみんなを愛している。



こーゆーたぐいの話しを、よく女将と、そして子どもたちと話した。



そして、それはいつしかみんなの合意になった。



それが今回の、女将の


「卒業式」


へとつながった。



前にもこのブログで書いたけど、


ぼくは


「人は死んでも死なない」


という、なにか確固たるものが心に宿っている。



「なんで?」


と聞かれても答えようがない。


「そう感じるから」


としかいいようがない。



人の死とは、今いる部屋からとなりの部屋へと、

ドアを開いて行くようなものなんだ。



ただ、それはなぜかワンウェイ(一方通行)だから、

会おうとしても、すぐには会えない。



肉体というものは、

この世を生きるためのツール(道具)、

もしくはヴィークル(乗り物)、

ぼくらより少し若い世代に分りやすい喩えは、

モビルスーツとか、そういうものだ。



「ぼく」という存在は、

それらをコントロールする「在るもの」。



じつはそれに近いことは、

ぼくたちはなんの不思議を感じずに、

日常的にやっている。



自動車を運転することは、

モビルスーツを着ているようなものだ。



自転車だって、いってみれば原初的なモビルスーツだ。



乗り終わり、用件が済めば、

自動車(自転車)は駐車場で、次の用事があるまで微動だにしない。

運転者がずっといつまでも戻ってこなければ、それはその自動車の死と同じだ。

そしていつかは朽ち果てる。



ドライバー=自分(在るもの)。


では、そのドライバーというのは、なんなんだろう?


ぼくという存在は、いったい、なんなんだ?


ぼくは、どこからきて、どこへゆくのだろう?


感じるって?


考えるって?


話すって?


愛するって?


喜びって?



ぼくは答えを持っていない。



ただ、ぼくが感じることは、

この愛という感覚は、

だれもが普遍的に、

生まれながらに持っているものだということ。



それを発揮しようと思うか、思わないか。



愛が、この世を生きる動機だ。



愛によって、ぼくというモビルスーツが動いている。




これから福島第一原発がどうなって行くか分からないし、


食料事情がどうなるかも分からないし、


次の大地震がいつ起きるとも分からないし、


新燃岳が本格的噴火をしないとは、だれにもいえない。




細心の注意を払って、


でも、


いつも愛をもって、


この荒波を乗り越えたいと思っている。



こんなことを言い切ってしまえるのも、


女将と27年間、


きみと愛し合えたおかげだ。


ありがとう。


愛してる




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