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生きることをよく、考えたい。


今までだって、考えてこなかったわけじゃなかったし、


いつも生活の中でもできるだけ自分たちの生き方をしようと努力してきたつもりだけど、


そんなこと、お飯事(ままごと)のようなもんだった。




それを分からせてくれたのは、3月11日。



その日を境に、ぼくの、家族の生活は大きく変わった。



何度も書いているけど、

福島第一原子力発電所の事故で、国の対応はどうしても得心がゆかない。

なぜ速攻で、赤ちゃん・子ども・若い人々を安全圏に避難させなかったか。

なぜ速攻で、情報を開示しなかったか。

なぜ速攻で、「安全、安心、すぐには健康への影響はない」と言えたのか。



これだけで、ぼくには充分だ。



赤ちゃん、子ども、若い人々。



彼女・彼らは、次の日本という国を背負って立つ人々じゃないか。



どれだけ危険かどうかは、事故当初分からなかったとしよう(百歩譲って)。

それでも、それなら、まずは、

だれが考えても安全だと思えるところまで避難させて、

その後、正確な測定・調査をして、

安全だと確認できたところから避難解除をすればよかったのではないか。



自分の家が火事なったらどうする?

赤ちゃん、子どもたちには一番安全なところへ逃がすだろう?

炎のすぐそばでも安全・安心、すぐには燃えないから、

なんて言うかい?



この、最も基本的なことを、この国はしなかった。

この国は未来に蓋をした。



簡単に言えば、命より経済ということなのかなと思う。



では。


なぜこのようなことがこの国で起きるのだろう。


さがせば理由は五万とでてくるだろう。


それを今すべてここに書くほどの知識も理解もないけど、

多くの人が抱える問題それは、経済だ。


「仕事をしなければ生きてゆけない」


というところに行き着く。



でもよく考えてみよう。


人間以外の、すべての生きとし生けるものは、

一切の仕事をしないでこの地球に生きている。

借金も、ローンも、なにもない。



なんで人間だけが仕事をしないと生きてゆけないのだろう?


仕事って、なんだ?


お金って?


所有って?


土地って?


家って?



生きるとは?




ぼくは30年ほど前にある一冊の本と出会った。


わら一本の革命



ここからぼくの生き方が決定づけられた。



福岡正信さんは、伊予の小山ひとつを、丸々、

「食べられる山」

にしてしまった。



ぼくは25年ほど前に彼の山まで行ったことがある。


彼の山に入ったとたん、それまで雑草が生えていた道端は、

大根、人参、蕪、牛蒡、芥子菜などに変化していた。

つまりぼくらが雑草とおもう場所に生えている草は、

なんとみな食べられる草なのだ。


陸稲もあれば、麦もある。


視線を上に向けると、山桃、キウイ、みかん、なんでも果物を捥いで食べられる。



これらの作物はしかも、

「無耕起」「無化学肥料」「無農薬」「無除草」

だという。



近代科学農法と真逆だ。



収穫の手間さえ受け入れれば、桃源郷がここにある、

そういう環境を、ぼくは目の当たりにした。



山小屋も、福岡さんご自身が建てたもので、

そこでぼくら家族は、福岡さんが取ってきた野菜で作った、

あったかいうどんをごちそうになった。



「下界」はどうあれ、

その小山に居さえすれば、

仕事もせず、

お金も持たず、

彼は一生を全うできる。



彼の山を下り、

福岡さんご家族にお別れをし、

タクシーに乗り、

飛行機で羽田まで帰り、

いったいぼくはなにをしているのだろうと思った。

文明って、一体なんなのだろうと。




ぼくの生きる原点には、いつも福岡正信さんがいる。




そして今回の、0円で生きることが可能だとする坂口恭平さん。



ぼくのフードプロセッサのなかで、


福岡さんと坂口さんがミックスされている。



なんだかわからないが、


わくわくするこころを、止めることができないよ。



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