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30ん年目の、不食。 [不食]



ぼくはよく

「30ん年前」

というフレーズを書きますが、

それはその時期にぼくの中で

大きな変革期があったからです。




そして今、同じような、もしくは

「さらに大きな変革期」が

目の前に控えている感があります。



そのうちのひとつが、「不食」です。



なにか分からないけど、

生き方によって

人それぞれ

自然といろいろな形で

スイッチが入ることがある気がします。


あたかも時限装置のように。



ぼくにとっては

「一日一小食・不食」

という出来事が、

ある日突然始まりました。



どうも、へん

なんか、おかしい

ぜんぜんおなかがすかない!


すかないんだけど

食べればいつでもおいしい!



そう感じながら

一日一小食が始まって

ちょうど1年8ヶ月が経ちました。



スクリーンショット 2017-03-10 1.29.30.jpg
この日、2015年7月5日から始まりました。



たしかに還暦+4にはなったし、

老いて胃がちっちゃくなったから

小食になったんじゃないの?

とか

いろんな見方はあると思いますが、

冷静に日々自分を観察していて

どうやら

そういうことではなさそうです。



なんでそんなに食べなくても

生きてゆけてしまうのか?


そこにはぼくの

今までの「常識」では捉えきれない

なにかがあるような気がします。



だって、

今までみたいに食べなくても

今までみたいに変わらず

生きていられちゃうんだから。



いろいろ、いろいろ、考え、

行き着いたのは「プラーナ」です。



「プラーナ」

という言葉を知ったのも、これも

30ん年前だった気がします。



「プラーナ」



単語自体はサンスクリット語のようですが、

日本語に訳すと「気」、

ということになるらしい。
(詳しいことはわかりません)



じつはぼくは

大気に浮かぶ「プラーナ」(のようなもの)が

(たぶん)見えます。

これも、30ん年前から。



巷で一時流行した「目のトレーニング」の

“平行法”とか”交差法”というような、

ある意味、焦点を合わせないで景色を見ると、

突然、空気中に「光る虫」のようなものが

見えだすのです。


最初に見えた時は「なんだこりゃ」状態でした。
(でもきっと、誰でも見ようと思えば見えると思います)


場所場所によって、プラーナの量は違います。

山の奥は、多く見える。

高度が高いと、多く見える。

晴れの日は見えやすい。
(でも暗い部屋でも見えます)


久しぶりに飛行機に乗って

高度1万メートル上空で見てみたら

「ウジャウジャ」状態でした。



たぶん、

人間の「経済生活」が希薄なところほど

プラーナが多いんじゃないか、

そんな印象は

30年くらい見続けてきて、あります。



それとは別なんですが、

おなじように「光る現象」で

ぼくにとって

びっくりするような出来事がありました。



やはりこれも30年ほど前のことです。


朝目覚めて、布団の上に座って

ぼーっとしていたら、

光り輝く虹の粒子でできた筒が

床から天井までぼくの周りにできて、

つまりぼくは虹のチューブに「隔離」状態で、

それがゆ~っくりと左に回転している。
(右だったかもしれません、加齢中)



東の窓から入ってくる朝日に照らされ、

キラキラキラキラ、いつまでも。


これはプラーナどころの話しではありません、

もっともっと圧倒的な光の粒子量です。



その光り輝く虹越しに妻の姿を見ると、

歪んで、というか

霧の向こう、のような

度が合わない眼鏡をかけているような状態。



ぼくが興奮して

すごい、すごい、と言っても

彼女はそれほどではない様子。



え? 見えない? と、ぼく。


ん~、そうね、なんか、

いつもと違う感じはわかるけど、と、妻。



ぼくはあまりの美しさに圧倒されながら

首を回して後ろ側を見てみたり

天井の方を眺めてみたり

座る位置を変えてみたり

手を妻の方へ伸ばしてみたり

いろいろとやってみました。



数分、それは続いただろうか、

やがて霧が消えてゆくように、

その虹の筒もぼくの周りから消えだし、

妻の笑顔がはっきりと見えました。



これはさすがに、プラーナじゃないな、きっと。

もっともっと、すごい、

ゴージャスな感じ。

でも、じゃ、なんだったんだろう。
(夢じゃないです、断じて!)



そんなこともあったのですが、

ともあれ、「プラーナ」というものは

ぼくの中では現実に見えてしまうので

「リアル」なものです。



ぼくが一日一小食、

あるいはここ数日、

まったく食べなくても平気なのは、

きっとこの「プラーナ」というものを

呼吸で取り込んでるんじゃないか。



人間が生きる上で大事な空気みたいに、

プラーナもどこにも普遍的に存在していて、

それらを取り込んでいるんじゃないか、

きっと。



じゃ、なんでほとんどの人は

食べないとすぐにお腹が空いたり

元気が出ないと感じたり

苦痛を感じたりするの?



どうやら、そこに

「不食」の鍵がありそうな気がします。



ひとつは、こころのどこかに

「食べないと力が出ない」

という思い込みのようなものがあるんじゃないか、

ということ。



そしてもうひとつ、

じつは「プラーナ」を取り込むための

「スイッチ」のようなものが、

きっとどこかにあるんじゃないか。



ぼく自身もまだよく分かっていないのですが、

小食を意識しだしたころから、


1)瞑想を始めた。

2)太陽凝視をするようになった。

3)朝日、夕日、月、星、などなど、
 「光」そのものと多く接するようになった。


4)あまりに美しいので、
  太陽・月・天体・自然などを
  カメラで撮り始めた。


5)シャッターを押す時の呼吸は
  瞑想している時の呼吸と似ている。
 (ぼくにとって)


6)だから何時でも
  瞑想しているような状態がある。


こういったことが影響しているかもしれません。



さらにいうと、ぼくは311以後

店を休業状態にしていますが、

その代わり、

自分の心のおもむくままに

生きるようにしています。


同時に、自分の身体の声に

正直に生きるようにしています。



好きなことを、する。

嫌だと思うことは、しない。



正直に生きるということは

じつはけっこう難しく、

ぼくにとっては

自分をどこまで本気で愛せるか

ということでした。



自分が「今、心底やりたいことをやる」と、

心が喜び、身体も喜ぶ。



すると、

もしかしたら周囲の「ひと」も

ぼくが喜んでいることを

喜んでくれているのかもしれない、

そんな感じも湧き上がってきます。


利己主義、というのとはちょっと違うかな。

自分が喜ぶということと

ぼく以外の人々が喜ぶということの

接点を探している感じでしょうか。



とにかく日々が美しくて。

朝も昼も美しいし、夜も美しい。

自然が美しくて仕方がない。

どうしても見たい、見続けたい。



ていうことは写真に収めたら、

もしかしたら同時に家族、親友たち、

あるいはSNSでつながっている人たちも

喜んでくれるのかもしれない。



鶴居村まで発作的に鶴を見に行ったり、

などということも、

なんかそういう感覚が原点にありました。



そんなことをし続けていたら

自然にいつのまにか、

どんどん不食が進んでゆきました。



それって、もしかしたら

自己愛と自他愛のバランスがとれだすと、

「プラーナ」の摂取機能が働き出すのかも?

そんな感じがしました。



「自分が自分が」というのではなく、

「人が人が」というのでもなく、

「ちょうどいいポイント」

というものがじつはあって、

そこにさしかかると突然

「スイッチオン!」

になるのかな、

などと、妄想中です。



先日、初めて

「不食」関連の本を読んでみたのですが、

「プラーナ」のことが書かれていたので、

びっくりしました。



ん~、なんか、


つながってる・・・のかなぁ。



ともあれ、

食べないで生きていられるということは、

じつはとんでもないことなんです、

ぼくにとって。


少なくとも一日三食を食べている人からすると、

ぼくの食費はこの1年8ヶ月は1/3です。



まったく食べない人々がいるそうで、

その人々は食費は0円です。



災害などにあったととしても、

食べないで済むのなら
(食べるとしても小食で済むなら)

どれだけ心配から解放されるでしょう。



本当にそういうことが可能なのかどうか。


そこにぼくはとても興味があります、

わくわく。



(追伸:これは、ぼくが
自己責任でやっていることです。
プラーナがあるかどうかは
科学的に証明されているかどうかわかりません。
あったとしても、上記のように
スイッチが入るのかどうかもわかりませんので、
どうか、真似はしないでくださいね)



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