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がまんしない、で、生き抜こう。



何日か前に見た「超夢」

なんだかとても清々しくて。



それは世の中に

「CM」という存在が無かったからだ。





「三丁目の夕日」

という映画で

まだ貴重だったテレビを所有する家に

町中の人が観に集まる場面があった。



まさに我が家がそうだった。



父は俳優だったので

いち早く自分の家に


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テレビ受像機を置いた。

アメリカRCA社のテレビの下には

ステップダウン変圧器があった。



プロレスの時は

入りきれないほどの人々が

熱狂的に見入っていたのを

今でも思い出す。



「力道山」で検索したら

思いもかけず

彼がアメリカで



Mercedes Benz SL300を駆る映像が。


「プロレスの日」。

それは金曜日だったか。


母は集まった方々に

ビールやら麦茶らを出していた。


隣近所はもちろんのこと

ビール・ジュースを運んできた

酒屋さんの店員さんはもちろんのこと

八百屋さん、魚屋さん、肉屋さん

牛乳屋さんなどなど

さまざまな職種の人たちが

毎週我が家に集まってきていた。



そんなわけだから

ぼくは赤ん坊の頃から

テレビは日常的なものだった。



その当時の記憶では

テレビ番組で

CMというのがほとんどなかった。


あったとしても

番組の最初と終わりだけだったような気がする。



それが、いつしか

番組の「途中」に入り出す。



大事なところで入るCMが

なんとも

ものすごい違和感だった。



やがて番組を中断する

CMの本数が増えだす。


CMによっては1分くらいの

「長編」もあったんじゃないだろうか。



その「1分」の中に

最大限に商品を印象つけるべく

脚本から監督からカメラマンから

一流の人々がCMに参加するようになる。



やがて

一流どころを使っていると

コストがかかってやってられない
(かどうかは、ぼくの判断ですが)

その代わりに
(かどうかも、ぼくの判断ですが)

簡単なCMを

終わった途端にもう一度流す

という手法が始まった。

「あれ?今見たばかりなのに」

という形で印象付けようとしたのだろう。



ただでさえ見たくないCM。

さらに、違和感を感じた。



そしてついに

同じ映像を

3回立て続けに流すCMも出現。






たぶん、このころから

ぼくのTV離れが始まっていたのかもしれない。



だって

一番いいところでCMって。



あれ、そういえば

急に、思い出した。



「アスパラ」という田辺製薬のCM。



「生き抜こう」だったのが


いつしか(あっという間に)




「やりぬこう」へと変化した。


これもなんだか、違和感あったなぁ。


「誇大広告」という話しを聞いたような・・・。


「忖度」の始まり分岐点だったのかな?



ちなみに

「生き抜こう」の歌詞は

なんと4番まであったんだ。
(四季を歌っていたんだ)


作詞・作曲は三木鶏郎さん。


彼はたくさんのCMソングを作っていたんだね。




「わ、わ、わ、輪が三つ」ミツワ石鹸




「船橋ヘルスセンター」




「明るいナショナル」


なんと



鉄人28号の主題歌も。



司会者・ジャズ評論家の三木鮎郎さんは、ご実弟。


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「スター千一夜」の司会をされていたなぁ。

父が千一夜の番組に出演する時に

ぼくも一緒に出させられた記憶が・・・。
(加齢中だけど)

その時鮎郎さんがとても優しかった記憶が・・・。
(絶賛加齢中だけど)



鮎郎さんご長男の三木睦郎さんは

「笑点」の放送作家・・・。



はて、笑点に・・・放送作家



ま、いいか。




三波伸介さん、大好きだったな。



いろいろ、昭和を思い出した。



話は戻るが

CMのない世界って

時間・空間が青空のようで

ほんとに空気がおいしかった。
(超夢の世界のことです)



そういえば

いつからぼくたちは

「消費者」と呼ばれるようになったんだ?



人生って

毎瞬毎瞬

我慢するのでなく

自分の最高で

生き抜こ〜う♪




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