石巻、東松島の今、仮設の人々、そして義援金はどこに。
えいやっ、と、山形アル・ケッチャーノに来られたのには、
もうひとつぼくにとっては大事な用があったからだ。
東松島の被災地の方々はどうしているのだろう。
仮設住宅の状況はその後、どうだろう。
それがぼくの頭を片時も離れない。
東京から見れば同じ東北。
行ってみるしかない。
行けばわかる。
行こう。
まずは石巻の日和山公園から眼下に見える市内を観れば、おおよそが理解できる。
公園の真ん中には、あひるがいる(仲良くなった。ちょっと調子悪そうだったな)。
ああ、かあちゃんの車椅子を押して歩いたなぁ、なつかしい。
一緒に、来たね(2011年5月21日)
道を下って行くと、眼下に市内を一望できる場所があるのだ。
あれ、瓦礫がずいぶん減ってる気がするのは、加齢か。
以前は、こうだった。
まちがいなく減ってるな。
でもここ宮城から北九州までトラックに積んで瓦礫を処理するって、
ぼくはものすごく無駄なことだと思う。
細川護煕元首相が理事長を務めておられる運動、
「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」
これをもっと推進するべきだと、ぼくは思います(以前、ぼくが書いたブログは、こちら)。
今日は自転車を積んできたので、まずは自動車をどこかに駐車して。
ファミリーマートだったところです。
おし、自転車で、GO!
日本製紙石巻工場
再稼働していた。
市立門脇小学校
以前は、こうだった。
近くのお墓は、ほぼすべてきれいに立て直されていた。
以前は、こうだった。
海側に移動。
どこまでも続く、瓦礫
重機でなにをしているところかというと、おどろくなかれ、分別中。
手前は冷蔵庫? 後ろはすべて木材
金属物
プラスティックなど
山のような瓦礫を、この重機を使ってプラスティックコーンとか、
木片とか、バスマットとか、トタン波板とか、ひとつひとつ、一枚一枚、
取り分けているのだ。
見ていて気が遠くなる思いだった。
ところで、この日ニュースで知ったのだが、
石巻の瓦礫の処理費は宮城県で最も高コストだという。
最も低コストは東松島市。
なぜ、そうなるのか?
理由は簡単なことだった。
瓦礫集積所に集める前に、すでに分別しているからだという。
いまさら遅いのだけど、
こういうノウハウというのは、今後に生かすべきだと思う。
あ、まだこの建物、残ってた。
石巻市立病院看護士宿舎
この写真でわかるかな、3階は津波に対して無傷だった。
被害は2階までだったのだ。
以前は、こうだった。
自動車に戻って、石巻平野部から、東松島へ移動しよう。
ファミマの跡地に戻ったら、
なんか、大型バスがぼくの自動車のとなりに。
しかも、外国人がゾロゾロと降車している。
Tsunami Energy Dissipation Workshop
バスの運転手さんに尋ねたら、東北大学主催のワークショップということだった。
世界中から津波の学者さんたちが集まってきているのだという。
「今ごろ見てもそれでどうした」感はあるが、ま、見ないよりはいいか。
「がんばろう!石巻」で、最後のショット。
おし、東松島へ移動。
いつも行きたいと思っていて、一度も行ったことがなかった野蒜地区。
野蒜駅は放置状態。
でも、となり駅の陸前小野駅は、無事再開していた。
タクシーの人待ちが、なんか、元気出るな。
以前は、こうだった。
野蒜駅に車を置いて、自転車で走ることにした。
野蒜はゴーストタウン化してる、車、ほとんどゼロ。
水溜まりには、いまだにベースギターが浮いていた。
中学校のプールの基礎が、ない。
奥松島縄文村
東松島の海岸、波は荒いけど、きれいな景色だ、さすが松島。
サーファーがふたり、海から上がってきた。
おもしろい岩? なんだろう? でも、きれいだ。
2011年5月21日の写真に、同じ岩(?)の絵が。なんという岩なんだろう。
日が陰り出した。
おし、仮設住宅に、GO!
なぜかっていうとね、仕事に行ってたひとたちが帰宅する時間だからだ。
44世帯入居中の仮設住宅
きれいに花壇ができていた。
山形のぶどうを8ケース持ってきたのだけど、ぜんぜん足りなかった、反省。
何人かの、茹で出しのときにご縁をいただいたなつかしいお顔があった。
あちらもぼくのことを覚えていてくださり、
ゲートボールの手を休め、近づいてきてくださった。
開口一番、
「奥さん、どうされた?」
さすがに胸が、詰まった。
ご自分たちが、どれだけ大変な生活を強いられているのか。
そのなかで、ぼくの妻のことを心配してくれていたって。
「去年、亡くなりました」
「あらぁ、そうだったの、ざんねんだねぇ。でも、あなたも気をつけてね」
はい、もちろん。
こどもたちがたくさんいますし。
どこからともなく何人かの住民が集まってくださったので、
意を決して尋ねてみた。
「ところで、義援金って、どうなっています?」
一瞬の間のあとに、
みなさん、異口同音に、
「あれぇ、もらったのって、去年だよね、たしか2回もらったかな」
「そうだなぁ、ことしは一回もないなぁ」
「最初は市からだったね、そんなにたくさんもらった記憶はないよなぁ」
「二回目は、なんか、台湾の人からだったっけね、一世帯あたり5万円」
・・・・・、
彼らの会話を聴いていて、ぼくはだんだん耳が遠くなって行くのを感じた。
彼らの会話が耳に入らなくなった、怒りで。
世界中から、どれだけの義援金が赤十字に集まったというのだ。
どれだけの国民が、募金をしたというのだ。
孫正義さん、柳内さん、レディ・ガガさん、各界の著名人のみなさん、各企業、
みなさんからの義援金は、どこへ行き、今どこにあり、
いつ、どこの被災者の方々の手に渡るのだ?
義援金というのは、いったい、だれが管理しているのですか?
仮設の方々は、それでも明るい元気な顔で対応してくださったが、
内心は、どうなのだろう。
最後の会話は、本当に痛烈だった。
これで、今回の宮城の被災地の旅を終わります。
またこよう。
来なきゃ。
そうそう、最後に。
「おれはさ、農家やってたんだけども、田んぼも畑もみんなやられちゃってさ、
少しばかりの土地、借りて作ったりしてるけどさ、すぐにはできないでしょ?
情けないけどさ、野菜買ってるのよ。
いま、一応生活できてるっちゃ、できてるけどさ、
食材、あると助かるよね、炊き出しじゃなくて、食材、ね」
送ります、必ず。
この国の政策に、愛を。
もうひとつぼくにとっては大事な用があったからだ。
東松島の被災地の方々はどうしているのだろう。
仮設住宅の状況はその後、どうだろう。
それがぼくの頭を片時も離れない。
東京から見れば同じ東北。
行ってみるしかない。
行けばわかる。
行こう。
まずは石巻の日和山公園から眼下に見える市内を観れば、おおよそが理解できる。
公園の真ん中には、あひるがいる(仲良くなった。ちょっと調子悪そうだったな)。
ああ、かあちゃんの車椅子を押して歩いたなぁ、なつかしい。
一緒に、来たね(2011年5月21日)
道を下って行くと、眼下に市内を一望できる場所があるのだ。
あれ、瓦礫がずいぶん減ってる気がするのは、加齢か。
以前は、こうだった。
まちがいなく減ってるな。
でもここ宮城から北九州までトラックに積んで瓦礫を処理するって、
ぼくはものすごく無駄なことだと思う。
細川護煕元首相が理事長を務めておられる運動、
「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」
これをもっと推進するべきだと、ぼくは思います(以前、ぼくが書いたブログは、こちら)。
今日は自転車を積んできたので、まずは自動車をどこかに駐車して。
ファミリーマートだったところです。
おし、自転車で、GO!
日本製紙石巻工場
再稼働していた。
市立門脇小学校
以前は、こうだった。
近くのお墓は、ほぼすべてきれいに立て直されていた。
以前は、こうだった。
海側に移動。
どこまでも続く、瓦礫
重機でなにをしているところかというと、おどろくなかれ、分別中。
手前は冷蔵庫? 後ろはすべて木材
金属物
プラスティックなど
山のような瓦礫を、この重機を使ってプラスティックコーンとか、
木片とか、バスマットとか、トタン波板とか、ひとつひとつ、一枚一枚、
取り分けているのだ。
見ていて気が遠くなる思いだった。
ところで、この日ニュースで知ったのだが、
石巻の瓦礫の処理費は宮城県で最も高コストだという。
最も低コストは東松島市。
なぜ、そうなるのか?
理由は簡単なことだった。
瓦礫集積所に集める前に、すでに分別しているからだという。
いまさら遅いのだけど、
こういうノウハウというのは、今後に生かすべきだと思う。
あ、まだこの建物、残ってた。
石巻市立病院看護士宿舎
この写真でわかるかな、3階は津波に対して無傷だった。
被害は2階までだったのだ。
以前は、こうだった。
自動車に戻って、石巻平野部から、東松島へ移動しよう。
ファミマの跡地に戻ったら、
なんか、大型バスがぼくの自動車のとなりに。
しかも、外国人がゾロゾロと降車している。
Tsunami Energy Dissipation Workshop
バスの運転手さんに尋ねたら、東北大学主催のワークショップということだった。
世界中から津波の学者さんたちが集まってきているのだという。
「今ごろ見てもそれでどうした」感はあるが、ま、見ないよりはいいか。
「がんばろう!石巻」で、最後のショット。
おし、東松島へ移動。
いつも行きたいと思っていて、一度も行ったことがなかった野蒜地区。
野蒜駅は放置状態。
でも、となり駅の陸前小野駅は、無事再開していた。
タクシーの人待ちが、なんか、元気出るな。
以前は、こうだった。
野蒜駅に車を置いて、自転車で走ることにした。
野蒜はゴーストタウン化してる、車、ほとんどゼロ。
水溜まりには、いまだにベースギターが浮いていた。
中学校のプールの基礎が、ない。
奥松島縄文村
東松島の海岸、波は荒いけど、きれいな景色だ、さすが松島。
サーファーがふたり、海から上がってきた。
おもしろい岩? なんだろう? でも、きれいだ。
2011年5月21日の写真に、同じ岩(?)の絵が。なんという岩なんだろう。
日が陰り出した。
おし、仮設住宅に、GO!
なぜかっていうとね、仕事に行ってたひとたちが帰宅する時間だからだ。
44世帯入居中の仮設住宅
きれいに花壇ができていた。
山形のぶどうを8ケース持ってきたのだけど、ぜんぜん足りなかった、反省。
何人かの、茹で出しのときにご縁をいただいたなつかしいお顔があった。
あちらもぼくのことを覚えていてくださり、
ゲートボールの手を休め、近づいてきてくださった。
開口一番、
「奥さん、どうされた?」
さすがに胸が、詰まった。
ご自分たちが、どれだけ大変な生活を強いられているのか。
そのなかで、ぼくの妻のことを心配してくれていたって。
「去年、亡くなりました」
「あらぁ、そうだったの、ざんねんだねぇ。でも、あなたも気をつけてね」
はい、もちろん。
こどもたちがたくさんいますし。
どこからともなく何人かの住民が集まってくださったので、
意を決して尋ねてみた。
「ところで、義援金って、どうなっています?」
一瞬の間のあとに、
みなさん、異口同音に、
「あれぇ、もらったのって、去年だよね、たしか2回もらったかな」
「そうだなぁ、ことしは一回もないなぁ」
「最初は市からだったね、そんなにたくさんもらった記憶はないよなぁ」
「二回目は、なんか、台湾の人からだったっけね、一世帯あたり5万円」
・・・・・、
彼らの会話を聴いていて、ぼくはだんだん耳が遠くなって行くのを感じた。
彼らの会話が耳に入らなくなった、怒りで。
世界中から、どれだけの義援金が赤十字に集まったというのだ。
どれだけの国民が、募金をしたというのだ。
孫正義さん、柳内さん、レディ・ガガさん、各界の著名人のみなさん、各企業、
みなさんからの義援金は、どこへ行き、今どこにあり、
いつ、どこの被災者の方々の手に渡るのだ?
義援金というのは、いったい、だれが管理しているのですか?
仮設の方々は、それでも明るい元気な顔で対応してくださったが、
内心は、どうなのだろう。
最後の会話は、本当に痛烈だった。
これで、今回の宮城の被災地の旅を終わります。
またこよう。
来なきゃ。
そうそう、最後に。
「おれはさ、農家やってたんだけども、田んぼも畑もみんなやられちゃってさ、
少しばかりの土地、借りて作ったりしてるけどさ、すぐにはできないでしょ?
情けないけどさ、野菜買ってるのよ。
いま、一応生活できてるっちゃ、できてるけどさ、
食材、あると助かるよね、炊き出しじゃなくて、食材、ね」
送ります、必ず。
この国の政策に、愛を。
2012-09-15 00:46
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