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乗り遅れると、たいへん、なのか [こころのなかの、こんくらい]


ぼくが住んでいる町から、カメラ屋が消えた。

それはもちろんデジカメが普及したからだろう。



ぼくの住んでいる町から本屋が消えた。

それはもちろん、電子書籍が普及したから、では・・・

・・・まだ、ない、だろう。

それは単に最後の本屋が店をたたんだ後、

新しい本屋ができていない、というだけのことだと思う。



でも、これもやがて、

あちこちの街から本屋が消えてゆくのかもしれない。



ふらりと本屋に赴き、

なにげなく目に留まる表紙に手をやり、

直感的に

「買ってみよう」

と思う、あの感じ。



あれ、よかったなぁ(あ、まだ終わったわけじゃありませんね)。




レコード屋もそうだった。

レコード世代のぼくからすれば、

CDの「ジャケット」はもはや「ケース」でしかないが、

それでも

「ジャケ買い」

なんていう言葉も、

ネットからのダウンロードに押されて、

なくなっちゃうのかな。



ジャケ買い、よかったなぁ。



ぼくは、レコードの音が大好きだった。

それがあっという間に、CDに置き換わってしまった。

(ぼくはまさに、その、現場にいました。当時、SONYのデザイナーでしたから)



CDの音は、最初に聴いたときから好きでなかったし、

今でもぼくの耳にはなじまない。

なじまないだけでなく、音楽を聴くたびに

「ああ、レコードは良かったなぁ」

と苦痛とともに思い出す、この感覚。

「しかたなく、CDの音でがまんするぼく」

が、今でもここにいる。




いつの時代にも変化は常にあり、

そのつど、人々は対応し続けてきた。



しかしこのところの変化は一言でいって、すさまじい。


そして、ほぼすべての、

地球に住む人間に変化の要求をしているような流れだ。


「乗り遅れると、たいへんだよ」


といわれているようなそれは、けっして強要ではないが、

それほど興味のない人々でさえもいつしか巻き込んでいる。



それはIT(information technology 情報技術 ですね)。



ぼくはデジタルが苦手で、いつも逃げ回っていた。



が、そういうぼくでも、今は数時間パソコンの前にいる。



なにか情報を得ようと思うと(ググる、といったりしますね)、

インターネットを介して怒濤のごとく目の前に流れ込んでくる。



Twitter、ブログなどをやると、あっという間に時間が経ってしまう。



ぼくはフィルムカメラが好きだったけど、

いつしかデジタルカメラに鞍替えをした。

Twitter・ブログには必需品だし。



そうやってパソコンを使っていると、

アナログ(今までのような、紙と鉛筆の世界、という意味です)だったら

起きえないような「出来事」で喪失感を味わうことがある。



一瞬のうちにデータすべてを失うHDクラッシュは、

とつぜんにそれは起き、今まであったものすべてが跡形なく消える。

そしてなにか、こころのどこかにぽかんと大きな風穴が開く。

すべてが止まったような喪失感。


これに似た感覚。

ぼくでいえば、肉親の死だろうか。

人によっては地震・火災などで家財を失うような感じだろうか。


大げさに聞こえるかもしれないが、

ぼくが最初に味わったHDクラッシュとは、

そういう印象だった。




電子書籍は、もうすぐ、火がつくことになるのだろう。

学校の教科書はiPadのような器機にとってかわるのか。

そのとき、アクシデントはないのか。

あるいは小学生たちは、

ぼくと同じような喪失感を味わうのだろうか。

それともそんな心配は、無用なのかな。



ぼく自身の頭の中のメモリはとても小さい(と決めている)ので、

すぐにオーバーフローする(ようにしている)。


そうでもしないと体も頭も、もたない。


加齢もあるだろうが、PCの前に長時間いると、

いつしか気力が落ち、視力も落ちる。



そういうとき、

ぼくは「アンプラグ(unplug 電源を抜くという意味ですね)」して、

完全に身体にすべてを委ね、

ロードバイク(自転車)で、和田峠に行くようになった。



往復120km弱。

これが、いいんだな。



峠まででもけっこうな距離があるが、

その峠自体が、かなりの勾配で、きつい(ここなどをご参照ください)。

身体を追い込む。

追い込んで、現実感をしっかりと身体にしみ込ませる。



通行量がきわめて少ない峠道の静けさ、

森の緑と香り、木漏れ日、

せせらぎの音、鳥のさえずり、

頂上付近からの絶景パノラマに、

こころがいつのまにか癒され、

心身ともにリセットされる。



ぼくはこんなやりかたで、なんとかこの「新しい時代」と付き合っている。



一方、女将はインターネットどころか、

携帯も、メールも、FAXさえも使わない。



それで、毎日幸せそうにパンを焼き、音楽を聴き、

料理を作り、家族を味わいながら生きている。



パソコンが使えない、

あるいは女将のように使う気のない人々、

買いたくても、高くて買えない人々、

そういう人々と、持てる人々との情報量の格差は、

今後、どうなってゆくのだろうか。




こうした、息継ぎもままならないようなスピードで、

ついてゆけない、あるいはついてゆきたくない人たちを置いてけぼりにして、

文明はこれからも突っ走るのだろうか。



いま、人はこころから幸せを味わっているのだろうか。



それとも、これから幸せを味わうための

プラットフォームを作っているところなのだろうか。



いま、人は

なにをしたくて、

どこへゆこうとしているのか。



この、大きな、津波のような潮流に、

どのように付き合いながら生きてゆけばよいのだろうと、

日々考えながら、黒森庵再開の準備を模索している。




それはそうとして。



ほわっと、日だまりのような、

そんなそばを打っていたいな。